本の方が読者を選ぶ。

日曜日の読売新聞の朝刊は「本」が満載。
昨日読んでいて、ある記事を見つけました。
今僕自身読んでいる本があり、
ちょうどその本を読んでいるときに感じたことを、
正に文章としてまとめたそんな記事でした。
神戸女学院大教授の内田樹氏が書いています。

本を手に取るときに、
手が本に向かって伸びているというよりは、
手が本に引き寄せられているという
感じを持つことがある。
みなさんも書店で本棚のあいだを歩いているときにも
「本と目が合った」という感覚がするときがあるだろう。
そうやって手に取った本は
私たちがまさにその時に読むべき
重要なメッセージをしばしば含んでいる。
本は読者が主体的に選ぶものではなく、
むしろ本の方が読者を呼び寄せる。
私はそう信じている。
だから、「積ん読」というのも
すぐれた読書術の一つと言えるのである。
雑然と積み上げられた本の山は
もののはずみで容易に倒壊するが、
そのとき崩れ落ちて、私の前に転げ出た本は、
どうしてそんな本がそこにあるのか
自分でも忘れてしまった本であるにもかかわらず、
私がそのときに読みたいと願っていた
当のその本なのである。
これは決して偶然ではない。
というのは私たちの認識能力は、
思われているよりもはるかにすぐれたものだからである。
私たちの潜在意識は、家の中にある本なら、
どこにどんなタイトルの本があって、
そこにどんなことが書いてあるのか
(まだ読んだことのなくても)
だいたい見当がついているのである。
そして、私たちは積んである本の山をわざと崩して、
手元に偶然その本が転がり落ちるように
無意識に仕組んでいるのである。
信じにくいことかもしれないが、
私たちの認識作用は(古い言葉で言えば)
「マッチポンプ」として構造化されているのである。
だから当然「濫読」というときにも、
実はジャンルの選択を
知らぬうちに済ませているのである。(以下略)

今読んでいる本というのが、非常に長い小説で、
第1巻を買って、読もうと思って以来、
何度も新年の抱負として、「第1巻読破」を掲げるものの、
一度として達成されたことはなく、
今年になってようやく1巻を読破できたと思ったら、
それから先は面白くて仕方がないのです。
長くて、しんどい部分もありますが、
もうすぐ7巻に差し掛かるに当たって、
少々読み終わることに淋しさすら感じるようになりました。
2006年の3月になるまで、読んではいけなかった本であり、
2006年3月になったら読まなくてはならない本であり、
とにかく読むべき本だった、そう思っています。
話者の感じることとか、思い出とか、回想シーンなどは特に、
薄気味悪くなるほど、その感情を見事に文章で表現してあります。
と、そういう本に巡り合った僕、
そして近頃あまり真面目に新聞を読まない僕が、
偶々手に取って読んだ新聞に、こんな記事が載っていた。
ということは、僕は2006年11月5日日曜日の朝に、
この新聞のこの記事を読まなくてはいけないから、
新聞を手に取った、そういうことなのでしょうね。
CLのアンデルレヒト戦はカカ坊の大活躍でご機嫌でしたが、
昨日の試合は観てません。
しかも負けたことが先に分かったので、
ますます観る気になりません。
スクデットはダメだろうけど、
CLは行けるだろう・・・って甘いと思いますか。
そーですか、甘いですか。